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横浜地方裁判所 平成4年(ワ)2024号 判決

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

理由

第一  請求

一  被告らは、原告に対し、各自五五〇万円及びこれに対する平成四年八月七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告清水建設株式会社(以下「被告清水建設」という。)及び被告株式会社テクネット(以下「被告テクネット」という。)は、連名で、原告に対し、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞の各朝刊社会面広告欄に二段抜きで別紙謝罪広告文案記載の謝罪広告を掲載せよ。

第二  事案の概要

本件は、被告テクネットに勤務していた原告が、上司である被告乙山春夫(以下「被告乙山」という。)から、わいせつな行為及び仕事上の嫌がらせなどを受けた上、被告テクネットが被告乙山に対する適切な処分等を行わなかつたことが原因で被告テクネットを退社せざるを得なくなり、性的自由、働く権利及び名誉を侵害されたとして、被告乙山に対し、不法行為に基づく損害賠償を、被告テクネットに対し、民法七一五条の使用者責任又は同被告自身の不法行為に基づく損害賠償及び不法行為(名誉棄損)を原因とする謝罪広告の掲載を、被告清水建設に対し、民法七一五条の使用者責任に基づく損害賠償及び不法行為(名誉棄損)を原因とする謝罪広告の掲載を、それぞれ求めたものである。

一  争いのない事実

1  原告(昭和四一年生まれ)は、平成二年五月、被告テクネットにアルバイトとして入社し、同年一一月からは、正社員として横浜営業所において一般事務及び製造補佐の業務に従事していたが、平成三年八月三一日、同被告を退職した者である。

2  被告乙山は、昭和四〇年被告清水建設に入社後、昭和六二年には同被告に在籍したまま被告テクネットに出向し、平成元年四月から平成四年九月に退職するまで、横浜営業所を統括する地位である機電事業部長兼横浜営業所長として同被告に勤務し、また、原告が被告テクネットに入社する際の採用面接を直接担当した者である。

3  被告清水建設は、建築土木等建設工事の請負を業とする株式会社であり、被告テクネットは被告清水建設が一〇〇パーセント出資して設立した株式会社で、建築土木に関する商品開発等を業としている。

二  当事者の主張

1  原告

(一) 被告乙山の加害行為

(1) 被告乙山は、平成二年秋ころから、原告の席近くの通路を通る際、時々、原告の肩を叩いたり軽く揉んだりするほか、当時ロングヘアであつた原告の頭髪を撫でるようになつた(以下「第一の事実」という。)。

(2) 被告乙山は、平成二年秋ころ原告が腰を痛めた際、「温湿布がいいんだよ。」、「私の手は人の手より暖かいんだよ。」、「良くなつてきた。」などと言いながら、原告の腰を触つた(以下「第二の事実」という。)。

(3) 平成二年一二月に横浜営業所の男性社員が一人退職し、被告乙山と原告とが横浜営業所の事務所内で二人きりになる時間が以前より増すと、同被告は、原告の肩を両手で揉んだり、頭髪を束ねて弄んだりするようになつた(以下「第三の事実」という。)。

(4) 原告は、平成三年二月六日、被告乙山から、接待に利用するための飲食店を探すのを手伝うように頼まれ、同被告と共に関内の飲食店二軒をまわり、二軒目の店を出て駅方面に向かつて歩いていたところ、同被告は、「今日はありがとね。」と言いながら、突然、原告の肩を抱き寄せた(以下「第四の事実」という。)。

(5) 被告乙山は、平成三年二月一九日午前一一時五〇分ころ、横浜営業所の事務所において、原告と二人きりであることを奇貨として、自分の机の前に立つていた原告に対して後方から突然抱きつき、「甲野さんを一度抱き締めたかつた。」、「甲野さんはかわいいから。」などと言いながら、原告の首筋に唇を何度も押し付け、原告が着ていた防寒着及び作業着の下に手を入れブラウスの上から胸を、ズボンの上から腰をそれぞれ触つたり、原告の顔に何度も唇を押し付けた上、原告の顎を無理やり掴んで口を開けさせ、自分の舌を原告の口の中に入れようとしたり、荒い息遣いで腰を原告の身体に密着させたまま上下に動かし、指を原告の股間に入れてズボンの上から下腹部を触るなどした。原告は、被告乙山の右行為に対して、胸、腰及び口等を防御するため、腕を胸の前で堅く組んだり、肘を張つたり、顔を背けたり、同被告の手を払いのけようとしたりして抵抗したものの、同被告は、原告の防御の姿勢に合わせて原告の前後に回り込むなどして、執拗に右行為を継続した。原告が被告乙山に対してやつとの思いで、「お昼過ぎちやいますよ。」、「だめですよ。」などと言つたところ、同被告はにやにやしながら、「ああ気持ち良かつた。」、「いい子だと気持ちいい。」、「やられた方はいい迷惑つてか。」、「こんなことしたら甲野さん泣いちやうかと思つた。」、「仕事辞めないでね。」、「悪かつたね。」と言つて、午後零時一〇分ころ、漸く右行為を止めた(以下「第五の事実」という。)。

(6) 被告乙山は、平成三年二月二二日、原告に対して第五の事実を認めて謝罪したものの、その後右事実を否定するようになり、また、原告を見てにやにやするなど反省の態度も見られず、同年三月一四日、原告から直接第五の事実について報告を受けた被告テクネット代表取締役山下秀夫(以下「山下」という。)から、翌一五日、同被告本社に呼び出され叱責を受けてからは、原告に対して仕事をさせないようにするなどの嫌がらせを行うようになり、原告を退職に追い込んだ(以下「第六の事実」という。)。

(二) 被告乙山の責任

被告乙山が原告の上司であるという立場を利用して行つた第一ないし第六の各事実によつて、原告は、被告テクネットを退職せざるを得なくなつた。右各事実は、所謂セクシャル・ハラスメントとして、原告を取り巻く労働環境を劣悪化した上、原告の性的自由等の人格権及び働く権利を侵害するものであり、幸福追求権を認めた憲法一三条、法の下の平等を規定した憲法一四条一項に違反するとともに、女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約二条に規定する「女子に対する差別」に該当し、不法行為を構成する。

(三) 被告テクネットの責任

(1) (民法七一五条に基づく責任)

第一ないし第六の各事実に関する被告乙山の行為は、それぞれ同被告が原告の上司としての地位を利用して行つた職務に密接な関連を有する行為であり、被告テクネットの「事業の執行につき」行われたものといえるから、同被告は民法七一五条に基づき損害賠償責任を負う。

(2) (民法七〇九条に基づく被告テクネット自身の不法行為責任)

山下は、原告から第五の事実について直接報告を受けたにもかかわらず、その事実関係について何ら調査することなく、被告乙山に対して原告に謝罪するよう命じただけで、同被告の配置転換等の適切な処分を行わなかつたため、同被告は、原告に対して仕事上の嫌がらせなどを行うようになり、この結果、原告を取り巻く職場環境が悪化し、原告は被告テクネットを退社せざるを得なくなつた。被告テクネット(具体的には山下)の右対応は、原告の働く権利を侵害するものであり、したがつて、被告テクネットは、原告に対して、民法七〇九条に基づき不法行為責任を負う。

(3) (民法七〇九条、七二三条に基づく謝罪広告義務)

被告テクネット(具体的には山下)は、第五の事実を知りながら、被告乙山に対する配置転換等の処分及び他の従業員に対する正確な事実の公表等の適切な措置を採らなかつたため、被告テクネット内に、原告の方に何らかの問題があつたのではないかという憶測を生じさせ、原告は、自分の所属する職場の秩序を破壊した者との評価を下された上、同被告を退社せざるを得なくなり、その名誉は著しく侵害された。原告の名誉を回復するためには、謝罪広告が必要であり、かつ相当である。

(四) 被告清水建設の責任

(1) (民法七一五条に基づく責任)

被告乙山は、被告清水建設に在籍したまま、被告テクネットに出向していたのであるから、被告清水建設が被告乙山を実質的に指揮監督することも可能である。したがつて、被告清水建設も民法七一五条の「使用者」に当たり、同条に基づき損害賠償責任を負う。

(2) (民法七〇九条、七二三条に基づく謝罪広告義務)

被告清水建設は、第五の事実を知り得べきでありながら、被告乙山に対する配置転換等の処分並びに被告清水建設及び被告テクネット(以下「被告会社ら」ということがある。)の各従業員に対する正確な事実の公表等の適切な措置を採らなかつたため、被告会社ら内に、原告の方に何らかの問題があつたのではないかという憶測を生じさせ、原告は、自分の所属する職場の秩序を破壊した者との評価を下された上、被告テクネットを退社せざるを得なくなり、その名誉は著しく侵害された。原告の名誉を回復するためには、謝罪広告が必要であり、かつ相当である。

(五) よつて、原告は、<1>被告乙山に対して不法行為に基づき、<2>被告テクネットに対して民法七一五条の使用者責任又は同被告自身の不法行為に基づき、<3>被告清水建設に対して民法七一五条の使用者責任に基づき、各自五五〇万円(慰謝料五〇〇万円、弁護士費用五〇万円)及び不法行為の後の日である平成四年八月七日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求めるとともに、<4>被告テクネット及び被告清水建設に対して、不法行為(名誉棄損)に基づき、原告の名誉回復のための措置として第一の請求第二項記載のとおり謝罪広告の掲載を求める。

2  被告ら

(一) 被告乙山

(1) 第一の事実について、原告の肩を叩いたり揉んだりしたことも、頭髪を撫でたこともない。

(2) 第二の事実について、原告が腰を痛めたと聞いたとき、温湿布がいい旨述べたことはあるが、原告の腰を触つたことはない。

(3) 第三の事実について、平成二年一二月に男性社員一人が退職したことは認めるが、新人社員が入つて来たため原告と二人きりになる時間が増したとはいえず、原告の肩を両手で揉んだり、頭髪を束ねて弄んだりしたことはない。

(4) 第四の事実について、被告乙山が、二軒目の店を出て駅に向かつて歩いているとき、原告に対して「今日はありがとう。」と言つたことは認めるが、原告の肩を抱き寄せてはいない。

(5) 第五の事実について、被告乙山が、平成三年二月一九日午前一一時五〇分ころ、横浜営業所の事務所において、原告と二人きりになつたことは認めるが、その余の事実は否認する。原告があれこれ述べていることは全くの作り事であり、事実は次のとおりである。

すなわち、右同日当時、被告テクネットでは、被告乙山自らが開発した被告テクネットの主力商品である太陽光採光装置(商品名ナチュライト。以下「ナチュライト」という。)の売上が増加し、その収支が赤字から黒字に転化しようという時期にあつた。そのころ、ナチュライトに対する世間の注目が集まり始め、新聞やテレビ番組の取材も頻繁に行われるようになり、平成三年二月一九日も朝からテレビ番組の取材があつて、被告乙山及び原告がそれに対応した。右取材が終了すると、被告乙山は、長時間にわたる取材が終了して胸を撫で降ろすとともに、そのテレビ番組が放映され、ナチュライトの受注が更に増加して赤字が解消されることを考えて極めて高揚した気持ちになり、一緒に取材陣に応対した原告とその喜びを分かち合おうとして、思わず、前から原告の肩を瞬間的に抱き締めてしまつたものである。したがつて、被告乙山には性的な欲求はなかつたし、同被告が原告の肩を抱いていた時間も、原告が主張するように二〇分という長きにわたるものでは到底なく、瞬間的な極めて短いものであつた。

(6) 第六の事実について、被告乙山が謝罪したのは、職場の平穏を乱したことについてであり、第五の事実を認めてのことではない。被告乙山は、山下に叱責された後、原告に対して仕事を与えないなどの嫌がらせをしたことはなく、原告が、自分から仕事をしなくなつて孤立してゆき、退職したに過ぎない。

(二) 被告テクネット

(1) 第一ないし第六の各事実は、被告乙山が「事業の執行につき」行つたものではなく、被告テクネットは民法七一五条に基づく責任を負わない。

(2) 山下としては、第五の事実についての原告及び被告乙山の言い分が全く齟齬している上、ことが婚姻前の女性の性的な問題であつたことから慎重かつ隠密裡に対応することが要請されるという状況のもとでは、被告乙山を被告テクネット本社に呼び出して叱責し、原告に謝罪するよう指導する以上のことはできなかつたのであり、たとえ被告乙山に対する配置転換等の処分及び他の従業員に対する事実の公表等の措置を採らなかつたとしても、何ら非難することはできない。したがつて、被告テクネットは、原告の働く権利及び名誉等の人格権を侵害したものとはいえず、何ら不法行為責任を負うものではない。

(三) 被告清水建設

(1) 被告清水建設が民法七一五条にいう「使用者」に該当するためには、被告清水建設に、被告乙山に対する実質的な指揮監督権があることが必要であるところ、同被告は、被告清水建設から被告テクネットに出向している者であり、被告乙山の給与等は被告テクネットが負担し、被告乙山に対する査定等も被告テクネットが行つているなど、被告乙山に対する実質的な指揮監督権は被告テクネットにあり、被告清水建設は、被告乙山に対する実質的な指揮監督権を有するものではない。したがつて、被告清水建設は、右「使用者」には当たらず、民法七一五条の責任を負わない。

(2) 被告清水建設は、被告乙山に対する実質的な指揮監督権を持たないので、被告テクネット内で生じた出来事に対して、同被告内の職場環境を調整するため、被告乙山に対する配置転換等の処分及び被告会社らの各従業員に対する事実の公表等の措置を採る立場にはない。したがつて、被告清水建設は、原告の名誉を棄損したとはいえず、何ら不法行為責任を負わない。

三  争点

争点は次のとおりであるが、最大の争点は第五の事実の存否である(なお、いずれも原告に立証責任がある。)。

1  原告主張の第一ないし第六の各事実が存在するか。

2  被告会社らが被告乙山に対する配置転換等の処分及び被告会社らの各従業員に対する事実の公表等の措置を採らなかつたことが違法であるか。

3  原告主張の第一ないし第六の各事実中の被告乙山の行為は、民法七一五条一項の「事業の執行に付き」行われたものといえるか。

4  被告清水建設は、民法七一五条の「使用者」に当たるか。

第三  争点に対する判断

一  争点1について

(一)  第一ないし第四の各事実については、本件全証拠によつてもこれを認めるに足りない。

原告は本人尋問の中でこれらの事実に沿う供述をしているが、原告の同僚である証人丙川一郎は、原告が被告乙山から何かされて困つているという話を原告本人からも、周囲の第三者からも聞いたことがないし、被告乙山が原告の腰や頭髪を触つているところなどを目撃したこともない旨証言していること、被告乙山は陳述書及び本人尋問の中で、第一及び第三の各事実については、原告の頭髪が長かつたので工場で作業をする際危険であるから頭髪を束ねるように注意しただけである旨、第二の事実については、原告が腰を痛めたとき温湿布を薦めただけである旨、第四の事実については、帰り際に「どうもありがとう。」と礼を言つただけである旨それぞれ供述し、原告主張の各事実中の被告乙山の行為について一貫してこれを否定し、供述に変遷がみられないこと及び各事実についての原告本人の供述自体具体性がないことに照らし、原告の右供述は採用することができない。

(二)(1) 次に、本件における最大の争点である第五の事実の存否について検討する。《証拠略》によれば、以下の各事実が認められる。

<1> 被告テクネット横浜営業所は、第五の事実があつたとされる平成三年二月当時、被告乙山自らが開発したナチュライトの製造、販売、施工を主な業務としていたが、そのころ、横浜営業所の従業員は被告乙山及び原告を含めて六名ほどであり、被告乙山が受注の約七割を獲得してくる状態で、同被告は多忙を極めていた。

<2> ナチュライトは、被告乙山自らが開発したということもあつて、同被告にとつて思い入れの深い商品であつた。ナチュライトは、昭和六二年から被告テクネットで本格的に事業化されたものの、その売上に対する赤字は、年々売上が増加して減少しつつあつたとはいえ、昭和六二年度は約四〇〇〇万円の売上に対して約三〇〇〇万円、昭和六三年度は約六〇〇〇万円の売上に対して約五〇〇〇万円、平成元年度は約九〇〇〇万円の売上に対して約三〇〇〇万円という状態で、ナチュライトの売上収支の黒字達成は、被告乙山の「積年の悲願」であつた。ナチュライトは、平成二年ころから、度々テレビや新聞等に取り上げられて報道されるようになつたため売上が益々伸長し、平成二年度に赤字は解消され(売上は約一億四〇〇〇万円)、平成三年度には約二億円の売上に対して約二〇〇〇万円の黒字を計上するまでに成長した。平成三年二月当時は、ナチュライトによる売上収支が赤字から黒字に転換するかどうかという正に過渡期にあつた。

<3> 平成三年二月一九日当日も、朝からテレビ番組の取材が予定されていて、最初のうちは、被告乙山、神谷営業課長及び原告がこれに応対したが、途中から神谷営業課長が所用で席を外したため、最後まで取材に応対したのは被告乙山と原告の二人となつた。取材陣は、午前九時ころ横浜営業所に来所し、その事務所が入つているビルの屋上に設置したナチュライトの撮影をした後、右事務所において被告乙山に対する約四〇分ないし五〇分にわたる取材をするなどした上、午前一一時五〇分ころ退所した。

<4> 被告乙山は、右取材が滞りなく終わり胸を撫で下ろすとともに、右のとおりの取材に基づくテレビ番組が放映されることでナチュライトの受注が益々増加し、「積年の悲願」であつた売上収支の赤字からの脱却が達成されそうであるとの期待と喜びから、極めて気分が高揚し、暫くの間、受注数等を記載したホワイトボードを眺めたり、横浜営業所の事務所内を一人で手を叩きながら行つたり来たりするなど、高揚する心を押さえかねる程の状態であつた。当時、同事務所内には同被告と原告の二人しかおらず、本件で最大の争点とされる第五の事実(ただし、その内容が原告主張のとおりであるかは、後記のとおりである。以下「一九日の件」ともいう。)は、その直後に起こつた。

<5> 被告乙山の原告に対する後記認定の行為(一九日の件)の後、被告乙山は、一旦コンピューターの端末を操作してから自分の机に戻り、横浜営業所の事務所の入つているビルの一階にあるコンビニエンスストアに昼食を買いに行き、戻つてから再びコンピューターの端末を操作しながら昼食を取つた。原告も普段と変わらず自分の席で被告乙山と共に昼食を取つた。その際、事務所内には、原告と被告乙山のほか誰もいなかつた。

<6> 被告乙山は、従業員の一人から、原告が同被告のことを怒つていると聞き、神谷営業課長にも立ち会つて貰つた上、原告に対し、平成三年二月二二日、後記認定の行為(一九日の件)について謝罪し、同被告としては、一九日の件はこれで落着したものと考えていた。なお、その直後、原告は、「わあい、わあい、やつたあ、やつたあ、よし、これから帰つて祝杯だ。」などとはしやいで言つていた。

<7> その後、原告自ら、出入業者や近所の人々に対し、被告乙山からいやらしいことをされたという旨のことを述べた。

<8> 原告は、平成三年三月一四日、突然事前の連絡もなく被告テクネット本社に山下を訪ね、被告乙山が原告に対してわいせつな行為をした旨をしたためた書面二通を手渡した。山下は、一九日の件はいわば寝耳に水の出来事であつた上、ことが独身女性のプライバシーにも関わることであつたところから、本社所在ビル地下の喫茶店に席を移し、一時間以上にわたつて原告から事情を聴いた。右二通の書面には、一九日の件について単に「わいせつな行為」、「破廉恥極まりない行為」としか記載されていなかつたので、山下は原告からその具体的内容を聴き出そうとしたが、原告からは、右書面に記載されている以上の具体的な話は何もなかつた。

<9> 被告乙山は、平成三年三月一五日、山下から被告テクネット本社に呼び出され、平成三年二月一九日の行為について事情を聴かれた。その際、被告乙山は、「弁解はしませんが、テレビの取材を受け、取材終了後うれしくなつて思わず原告の肩を抱いただけであり、それ以上のことはしていない。」と、同被告が本訴で主張し、供述しているのと同趣旨のことを話した。しかし、山下は、同被告の言動には少なくとも女子社員が社長に直訴せざるを得ない混乱を生じさせたものがあると考え、同被告を強く叱責した上、再度原告に対して謝罪するよう命じた。そこで、同被告は、翌々日ころ、事務所員全員の前で原告に対して再度謝罪した。

<10> しかし、山下は、原告が被告乙山の謝罪の仕方に不満を持つているとの話を聞き、平成三年四月一一日、被告テクネットの定例部長会に出席するため同被告本社を訪れた被告乙山に対し、一九日の件についてもつと真剣に考えさせようとの配慮から、先に原告から受領していた前記二通の書面を見せたところ、同被告は、右書面記載のような事実は一切ない旨述べ、従前と変わらぬ態度ではあつたが、山下はもう一度原告に謝罪するよう指示を行い、右指示を受けて同被告は改めて原告に対して謝罪した。

(2) ところで、原告は、「被告乙山が、『甲野さんを一度抱き締めたかつた。』、『甲野さんはかわいいから。』などと言いながら、原告の首筋に唇を何度も押し付け、原告が着ていた防寒着及び作業着の下に手を入れブラウスの上から胸を、ズボンの上から腰をそれぞれ触つたり、原告の顔に何度も唇を押し付けた上、原告の顎を無理やり掴んで口を開けさせ自分の舌を原告の口の中に入れようとしたり、腰を原告の身体に密着させたまま上下に動かし、指を原告の股間に入れてズボンの上から下腹部を触るなど二〇分以上右行為を継続した。」と主張し、原告本人尋問においても、それに沿う供述をしている。しかしながら、左記<1>ないし<4>の検討結果、一九日の件の前後における被告乙山の言動を含む右(1)でみた諸事情並びに終始一貫し具体的な被告乙山の主張、供述に鑑みると、原告の右供述は到底信用することができない。

<1> まず、二〇分もの長時間の間、原告が被告乙山の為すがままにされていたということ自体、考え難いことである。

原告は、本人尋問の中で、前記主張の被告乙山の行為に対して、「腕でガードした」という行為のほか、「だめですよ。」、「もうお昼ですよ。」、「もうお昼食べる時間なくなつちやいますよ。」という言葉をかけたと供述するが、強制わいせつ行為ともいうべき右行為に対して、<イ>顔を背け、体をくねらせ、腕を突つ張るなどして抵抗したり、施錠していない横浜営業所の事務所の出入口から外へ逃げるとか、或いは、<ロ>反射的に悲鳴を上げて、横浜営業所の事務所の外に助けを求めたりすることもできたはずであるにもかかわらず、そのような行動を採らなかつたばかりか、かえつて、その供述からは前記主張の状況下にしては冷静な思考及び対応のあつたことさえ窺われる。原告の前記主張を前提とすると、そのような言動は不自然であるといわざるを得ない。

<2> 原告は、<イ>被告乙山に抵抗して逃げなかつた理由として、本人尋問の中で、「本当に逃げようと思つて抵抗して逃げられたかどうか分からないし、下手に騒いでよけい部長を煽り立てるようなことになつても困る」ということと、同被告に対する尊敬の気持ち及び同被告に対する恩があつたため、同被告を突き飛ばしたりはできなかつた旨を供述している。しかし、原告が主張する被告乙山の行為は、原告の性的自由を著しく侵害する強制わいせつ行為に比類すべきものであつて、このような攻撃を受けた場合、通常であれば冷静な思考及び対応を採ることはほとんど不可能であると考えられるところ、原告が抵抗して逃げようとしなかつた理由として挙げる右の各事由は、余りに冷静・沈着な思考及び対応に基づくものであり、納得し難いものである。

また、原告は、<ロ>反射的に悲鳴を上げるなどの行動を採らなかつた理由として、本人尋問の中で、「外が広い通りで車の通行量が多いんでかなりうるさいし、ドアを開けて外に出て、二階だつたんですよね、それで階段降りて人に助けを求めに人を探しに行かないとあまり人通りもないし、大声を上げたところでだれも聞きつけてくれないんです。」、「それにそこでもし騒いで外部の人が入つてきたら事が公になつちやうんですよね。逃げられたかもしれないけど、そこで逃げ出したらそれで終わつちやうんですよ。」とそれぞれ供述しているが、前者については、初め、大声を出しても無駄である旨の供述をしながら、その後すぐに、そもそも声を出すつもりはなかつた旨の供述をするなど、その供述自体変遷し一貫していない。また、後者については、原告主張に係る被告乙山の前記行為があつたとされる日の夕方に、原告は、同僚らに被告乙山から受けた何らかの行為について公表しており、事実を公表したくないという自らの供述とは相反する行動を採つている。この点、原告は、「公」というのは横浜営業所を除いた東京本社及びそれ以外を指す旨の供述をしているが、横浜営業所の従業員に対し事実を公表した以上、東京本社にもそれが伝わる可能性があることを原告も容易に予想できたはずであり、不合理である。その後、前記のとおり((1)<7>)原告自ら、出入業者や近所の人々に対して被告乙山からいやらしいことをされた旨のことを述べていることなども勘案すると、悲鳴を上げるなどの行動を採らなかつた理由についての原告の前記各供述は、たやすく信用できない。

<3> 原告は、被告乙山から前記主張の行為をされたと主張しながら、(1)<5>で認定したとおり、その直後、普段と変わらず被告乙山と共に二人きりで、横浜営業所の事務所内で昼食を採つている。原告主張のとおりの行為が行われたにしては、その直後のそのような二人の行動はいかにも不自然である。

<4> 原告は、一九日の件のあつた日の午後七時ころから午後一〇時三〇分ころまでの間、横浜営業所の工場で、右従業員の丙川、丁原及び戊田に対し、その日原告が被告乙山から受けた行為について、いろいろ話したりしていたが、その間、被告乙山から抱きつかれたことを窺わせる行動は示したものの、それ以上に、原告の前記主張のとおりの行為を受けたことを窺わせるような行動を示したり、或いはそのときの状況について右主張の行為に沿うような事実を具体的に話すなどのことは何ら行つていない。さらに、前記のとおり((1)<8>)、原告は、平成三年三月一四日、山下に直訴して事情聴取を受けた際も、右主張の行為に沿うような具体的な事実は何も話していないし、山下に手渡した被害の状況を訴える書面(二通)にも、具体的な事実は何も記載されていない。

真実、原告が主張するような状況があつたのであれば、原告には、その直後以降に被害の状況を同僚及び上司に伝える格好な機会が一度となくあつたのであるから、被害の中核部分についての若しくは少なくともそれがあつたことを窺わせる言動等が同僚らに対してあつて然るべきなのに、そのような言動が全くないというのも、まことに不自然なことである。

(3) 以上の検討結果等から明らかなとおり、原告主張に係る被告の行為(強制わいせつ行為に比類すべき行為)に沿う前記原告の供述は到底信用することができないし、他に右主張事実を認めるに足りる証拠はない。

かえつて、(1)で認定した各事実に、《証拠略》を併せ考慮すると、一九日の件は、ほぼ被告の主張どおりの内容であつたと認めることができる。すなわち、「被告乙山は、一九日の午後零時過ぎころ、自らが開発したナチュライトに関するマスコミの長時間にわたる取材が終了してほつとすると同時に、これによりナチュライトの受注が更に増加して積年の悲願であつた売上収支の黒字への転向が達成されることへの期待と喜びから極めて気分が高揚し、事務所内を手を叩きながら行つたり来たりするなどしていたところ、たまたま、最後まで被告乙山と共に右の取材に応対した原告が事務所内の自分の机に向かつて椅子に座り工程表等を眺めていたのに気づき、その喜びを二人で分かち合おうとして、思わず、前から両手を原告の背中に回して原告を抱き締めてしまつたが、原告から、『わたしはいつも、おじさんに好かれるの。』、『わたしは会社を辞めません。』などと言われたため、驚いて原告から離れた。」、というのが、一九日の件の実態として認められる内容である。

そして、右認定に係る被告乙山の行為が原告に対する不法行為を構成するほどの違法性を有するものでないことは、右行為に至る経緯等右で認定した内容自体から明らかである(なお、被告乙山は前記のとおり、右行為について再三にわたり謝罪しているし、これに対して原告自身も、被告乙山を宥恕する気持ちを窺わせる言動すら採つていることなどに照らすと、右の行為自体は、既に解決済みであると認めるのが相当である。)。

(三)  第六の事実については、本件全証拠によつても、被告乙山が原告に対して、仕事上の嫌がらせなどをしたこと及びこれによつて原告を退職に追い込んだとの事実を認めることはできない。

原告は、右事実に沿つた内容の供述をしているが、前記のとおり、一九日の件については、被告乙山の原告に対する再三の謝罪によつて、既に解決済みであると認められる上、被告乙山を含む横浜営業所の従業員らが以前にも増して原告に対して気を遣うようになつていたにもかかわらず、原告は、次第に横浜営業所の事務所ではなく工場の方に入り浸るようになつて、一般事務の業務を怠りがちになり、更には、出入業者や近所の人々に被告乙山にいやらしいことをされたというようなことを述べ、横浜営業所の従業員の中で孤立していつたのであつて、これらの事実に徴すると、原告の右供述はたやすく信用できない。

二  争点2について

前記のとおり、平成三年二月一九日の被告乙山の原告に対する行為は、行為自体が極めて軽微であつて、不法行為を構成する程のものではなかつた上、原告から直訴を受けた山下は、原告の言い分を十分に聴き、さらに、被告乙山から事情を聴取したのち、同被告に対し、原告への再三の謝罪を命じてこれを履行させているのであるから、被告会社らがそれ以上に、被告乙山に対する何らかの処分及び事実の公表等の措置を採らなかつたとしても、そのことが違法であるとは到底いえない。したがつて、被告会社らに原告指摘に係る不法行為責任を認めることはできない。

三  以上の次第であるから、その余の点について判断するまでもなく、原告の請求はいずれも理由がないからこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 鈴木敏之 裁判官 川口代志子 裁判官 菊池憲久)

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